マイゼン先生のこと

「フルート音楽の集い 25周年記念誌」に掲載した、マイゼン先生についての文章を紹介します。


マイゼン先生のこと

私がマイゼン先生の名前を初めて目にしたのは、1963年に遭難死した加藤恕彦氏の著書「アルプス山嶺に消ゆ」の中のミュンヘンのコンクールについて書かれた部分でした。
このコンクールで先生は第一位になられたのです。

演奏を初めて耳にしたのは、1969年、上野の東京文化会館nおけるK.・リヒター指揮の「マタイ受難曲」の素晴らしいソロでした。
そして1970年9月からドイツのリューベック音楽大学でレッスンが始まりました。

そのレッスンの様子について、思い出すことを書いてみます。

リューベック音大デットモルト音大へ、先生の転勤とともに私達が(当時、学生はまだ3人でした)移り、1972年頃でしたが、当地の中学校でフルートを教えることになり、その旨を先生にお話したところ、即座に「吹くこと」とおっしゃっていました。
言葉で生徒に説明するのでなく、吹いて音で示すべきだ、と言うのです。
マイゼン先生のレッスンがすでにその通りで、とにかく吹いて下さるのです。
ソノリテやディリーエクササイズのみならず、あらゆる教材を音で示してくれます。
その素晴らしい音の数々は今でも耳に残って離れません。

思うに、フルートのレッスンに際しては「先生」である前に、まず「フルーティスト」であるべきことを自分にも、自分の学生達にも要求したのでしょう。

レッスンでの学生に対する先生の教え方は、「熱心」の一語に尽きます。
学生が理解し、できるようになるまで根気良く教え続けますが、一方的に教え込むということではなく、学生を一人のフルーティストとして認め、本人が納得した上での合理的な練習法を与える、という大人のレッスンであったと思います。
そのせいか、レッスンで先生が学生に怒るということは一度も目にしていません。

このレッスンにおける「熱心さ」のことですが、ドイツには古くからマイスター制度というものがあり、先輩として身につけたものを、後輩に責任をもって伝えるという習慣がありました。
何時間も椅子に座ることなく、立ち続けてフルートを吹きながらレッスンに没頭している先生を見るとご本人は意識されていたかどうか解りませんが、私にはこの興味あるドイツの習慣が今も生き続けていると思われてなりませんでした。

それはともかく、マイゼン先生のレッスンの中で特に印象に残る3つの言葉があります。

1つは“Locker(ロッカー)”:これは体の無駄な力を抜き自由にすること。
先生は、これが特に重要なことと考えていたのでしょう。私を含め、学生達に言い続けていました。

2つ目は、“Tempo”:我々日本人に特に目立つことだったかも知れませんが、速く演奏しすぎる、と言うのです。
これは必ずしも遅く演奏すべきということではなく、自分のテンポをしっかりつかめ、ということです。
マイゼン先生の演奏を聴くと良く解るのですが、すみずみまでコントロールされた彼の演奏は常に完全に身につけた自分のテンポから生まれたもの、と納得できるはずです。

そして“Bogen(ボーゲン)”:これは弓・連結線・フレーズというような意味の言葉で、音楽は一音ずつにこだわらずに、一つのまとまり・グループ=フレーズとしてとらえるべきだ、ということです。
ヨーロッパの人達には比較的解りやすいようですが、我々日本人には理解の難しい言葉です。
しかし、ヨーロッパの音楽の基本を理解する上で非常に大事なことと思われたのでしょう。先生は、しばしば口にされていました。

2004年に埼玉県の秩父で行われたミュージックキャンプに参加し、久しぶりにマイゼン先生のレッスンを受けました。
曲はモーツァルトの協奏曲ト長調の第二楽章。それを聴いた先生が「そうだねぇ、当時はそう教えたねぇ、しかし今はこう考えている」と驚くような解釈で吹き出しました。
現役をすでに退いているのに、今なお音楽を追求する姿勢の驚かされましたが、同時にヨーロッパ音楽の伝統の重み、そして名フルーティストのあるべき姿をそこに見て感動しました。

名フルーティストが同時に名教師であった、という幸運を私は心から喜んでいます。